[25冊目] 書く。『ことばの糸を紡いで』

著者:松浦 信孝

コペル君(松浦さん)へ。

2か月前の約束、守りました。なんとかなりましたー!ふぅー!危なかった。

前回のブログで、自分との約束は裏切るが、他人との約束は守れるのかもと書いたけど、

本当に危なかった。

つい先日彼から連絡をもらった。「ズームをします。よかったら参加してください。」

それを見たときに何よりもまず、「まずい。」と思った。

約束をしたあの時、「もし次に会う時までに、僕がブログ書いてなかったら、その時は笑いましょう。」と僕は言った。このままだとそうなってしまう!!なんとなくそれは嫌だ!なぜなら約束をした時、絶対に書ける気でいたからだ。

と思いながらも「まだ3日あるな」とか考えている自分はさすがだと思う。

宿題をできない小学生、中学生と同じなのである。

しかし、今こうして書くということができた。当日になってしまったが、ナイス。自分。

僕とコペル君とは出会ってまあまあ経つ。友人と言えば友人なのだが、言い表しがたい関係な気がする。しかし、彼がなにかをするとなったとき、「絶対に自分のできることで応援する」と思っている関係である。たぶん、友人であり、仲間であり、同志のようなものだと思っている。ほかに書くことがあるとしたら、僕たち家族は彼のことがめっちゃ好きだ。なんなら義父、義母も同じく彼のことが好き。2歳の息子はきっと五感で好き。以前、妻がしんどい時に、彼の言葉で助けられたことがある。その時のことはよく覚えているのだけど、その言葉はあまり覚えていない笑。でもズームで画面越しだったのにも関わらず、彼の発するなにかに、なぜか僕は泣きそうになったことだけは強烈に覚えている。

そんな彼が本を書いたらしい。と私たち家族の中で話題になった。読みたいに決まっている。読むしかない。

そして、岡山の総社で本の販売イベントがあり、直接彼から買うことができた。

本の話

本の種類としては自叙伝である。

タイトルの「ことばの糸を紡いで」。

彼が読んだり書いたり、韋編三絶という本屋として話しながら、ことばと向き合ってきたことがこのタイトルに表れているのではないだろうか。まえがきにもあったが、『文章は定点観測になる』。これからことばを紡ぎ続ける彼自身がまたこの本を見返して、この時の気持ちを確認して読者の中で一番楽しむのだろうと思う。つまり、本は書いた本人が一番の読者になりうるのだ。という適当な論を今思いついたが、彼もあとがきで、『書くことで表れる気持ちがある』と言っている。これを読み終わったら、書きたくなる。書くことにもっと希望が持てる。僕が現在進行形でその一人です。

さて、読んで思ったのは、本には魂が宿るということ。読書のすすめの小川さんが以前にそう話していたことが、少しわかった気がした。コペル君の思考、大事にしていること、言わば、息づかいのようなものを文章から感じることができた。

それを魂と呼んでしまっていいかはわからないけど、そう思うことにした。

かっこよく言おうとしているが、シンプルにコペル君のことをもっと知ることができた。

それがただうれしかった。

そしてなんとなく感じていたことが確信に変わった。やっぱり、やっぱり、おもろい人で、変わり者で、愛のある人だ。人生を燃やして、熱く生きようとしていることがよく伝わってきた。よく考えれば、東京から総社に何回も好んでやってくる行動力の塊のような人だ。熱くないわけなかったのだ。

他には、文章が変化していると感じる。これはコペル君自身も著書に書いているが、僕もそう感じた。出会って間もないころのコペル君の文章とは違い、堅さのようなものが抜けている。頭で書くだけでなく、お腹のあたりで書くみたいなことだと思う。さきほど息づかいと表現したけど、いろんな出会いと、それに向き合ったことで、息づかいが変わっていくことで、文章も変化が起こりそう。コペル君の文章を通してそういう風に感じることができた。

いや、こんなことを書いたけど、今の僕はどうなんだ。どこで書いているのだ。頭か。腹か。地に足がついているのか。ふわふわしてないか。「どうなのか」と問いが湧いてくる。うーん。わからん。(実は妻にこの文章を読んでもらうとぼろくそに言われた。いろいろ書き換えました笑)

書くことって改めて、難しいなと思っている。

コペル君がこの本をつくりあげることでどれだけ悩んだり、書き直したりしたのか知れないが、また聞いてみたいと思った。

印象に残った言葉

だからといってこちとら今世に懸けている身である。

著者:松浦 信孝

にやっとしてしまった。こういうところがおもろい人だなと思う。「こちとら」という表現がおそらく、この気持ちを加速させる。この表現が二回でてきているのだが、なんだかコペル君の腹の奥底を見ている気がしてうれしい感じがする。これは僕だけなんだろうか?

熱い大人になれているだろうかと書いているところがあったが、僕からしたら既に熱い!

こちとら将来、畑をこさえて野菜を作り、狩猟免許を申請して獣を撃ち、生活の半分を経済原理の世界から足根っこ抜いて生きようと思っている人間である。

著者:松浦 信孝

こちらも、「こちとら」が入っているため、私の印象に残りました笑。

これがコペル君です。これがすべてではないにしろ、しらない方も、どんな人か想像がつくはず。

自分の主義の書き方が面白い。もともともっている多彩な表現力で自分の内側を以前よりも静けさと熱さとユーモアを持って、書いていることを確信している。

こんなことを書いてしまっていいのか、と思った時ほど、人の心を深いところで揺さぶったりするのです。

著者:松浦 信孝

今回、割と近しい人が、著者となったことを喜んでいることを書こうとすればするほど、著者の友人すげえでしょ、と自慢しているように感じられて、何度も書く手が止まった。それでは読んでいる人が不快になると思う。そうならないように配慮しているつもりだけど、そう感じたなら僕の実力不足です。

そういうことを考えながら、読み返していると、この部分に目が自然といった。こんなことを書いてしまっていいのかと消してしまったが、書いてもよかったのかもしれない。

そういう点で、今回ブログを書く中で過去一番に難しさを感じた。自分の表現力が足りないなと思った。めっちゃくちゃ、いや、めっちゃくちゃ悔しい!!それでも、書くってなんかいい!数年後、僕がこのブログを読み返したときに、きっとそれは楽しい定点観測になるだろう。今は悔しいが楽しみである。

センジュ出版の吉満さんが「文章はたった一人に向けて書いてください。」と言っていた。今回はコペル君に向けて書こうと思ったが、これは簡単なようで簡単ではない気がした。ブログだから、誰かに読まれることを前提に書いてしまっているのもあるが、今回は特に迷走してしまった。

タイトルは「書く」にした。コペル君の本を通じて、いつもより強く、書くということを考えさせられた。自分と深く対話でき、思っていた以上にいい機会となりました。

コペル君、いつもありがとうございます。

また直接話す機会もズームも楽しみにしています。

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